椎名町教会

1月3日メッセージ


『主の教えを喜ぶ教会』

聖書;詩篇1:2−3 日時;2010.1.3 

【序論】

明けましておめでとうございます。みなさんの信仰と家庭や仕事や健康に神様の大きな祝福がありますよう祈ります。年末や年明けになりますと、デパートでは福袋を並んで置いてお客さんを呼び集めます。東洋人は福を好みますが、特に、日本の人々は福袋を好んでいることがわかります。勿論、福袋は普通の定価よりはある程度安く売っていますが、自分に合わない物さえも手に入れるため福を切に求める人間の欲求が見られます。

このように、人間の究極的な目的は、みなが福をもらいたい、ということでしょう。今日のみことばでも「幸いなことよ」と、神様は詩篇の始まりを福から語っています。今年の聖句は詩篇1篇2,3節のみことばです。このみことばに基づいて、「主の教えを喜ぶ教会」を2010年度の椎名町教会の標語にしました。今年、この世の人々はデパートで福袋を求めでいますが、私たちは「主の教えを喜ぶ教会」となって、神様からの満ち溢れるばかりの天の御国の福と霊的な福を頂くよう願います。

【本論】

T。主の教えを喜ぶ教会は、幸いな教会です。

 この世の幸いな基準は、長寿(ことぶき)、健康や生活や子孫への祝福です。神様も聖書で私たちに約束されたのは祝福です。創世記1章24節以下で、五日間自然万物を造り、最後の六日の日「人間をご自身のかたちに創造された。神は、また、彼らを祝福し・・・」、12章1節以下ではじめにアブラハムを呼んだ時も「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し・・・」と約束されました。イエス様もマタイの福音書5章1節以下の山上の説教で、宣教の初めを、幸いな者の生活からみことばを伝えていました。聖書の最後の黙示録22章でも、イエス・キリストは「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを堅く守る者は、幸いです」(7節)、と仰せられました。神様は創世記から黙示録まで、私たちに幸いを約束してくださる祝福の神です。ですから、神様が書かれたこの聖書は祝福のメッセージとして福音と言います。

 神様は詩篇1篇1節で「幸いなことよ」を語り、最初に祝福の鍵で詩篇150篇のドアを開き、「主の教えを喜ぶ教会」に聖書で約束されたすべての祝福を与えてくださる、と約束しております。神様が示す「幸い」は二つの意味があります。ヘブル語で‘バラク’という祝福です。人間の善行に関係なく、神の憐れみと恵みによって頂く祝福です。神様からの一方的な祝福です。神様が御子イエス・キリストをこの世に遣わし、人間を罪から救ってくださるのは‘バラクの祝福’です。もう一つの祝福の意味は詩篇1篇1節の‘アシァル’という幸いです。‘神のみことばに従う者だけに報いとして与える祝福’です。毎日、神様と人格的な交わりの中で、神の御国の拡張のために、祈りや奉仕や伝道するクリスチャンに与える幸いです。

 1節では、クリスチャンがまことの幸せを享受するために神様は三つの生き方を提示されました。「悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。」罪の性質がますます雪だるまのように増加していきます。

誰が神様から祝福を受けますか。「悪者のはかりごとに歩まない者です」今、私はどんな道を歩んでいるか、を点検しましょう。神のみことばの前で、自分の考えや人間の知識やこの世の価値基準に基づいて信仰生活していない者が幸いです。

「罪人の道に立たない者です」皆さんと私は罪人です。しかし、ただの罪人ではなく、イエス・キリストの血潮で清められた罪人です。聖霊によって新しく生まれ変わった罪人です。神のみことばに従い、神の御国の民として生きる罪人です。ですから、詩篇記者が語る罪人のように、神のみことばから外れて、人間中心的な生きる信仰者とともに交わりをしない者が幸いな人です。

「あざける者の座に着かない者です」一滴の毒が体に入ると体全体の血液に広がれ、その人は酷い病気にかかるか、もしくはいのちを失ってしまいます。教会の中には神のみことばを無視したり、聞こうともしない者がいます。このような者は、自分も喜びや祝福を受けず、隣人にも毒を与え、喜びや祝福を奪い、神様との恵みの関係を断絶させます。自分も教会も霊的な伝染病を与えます。このような者がいる所にともにしない者が幸いです。

 悪者や罪人やあざける者の罪悪に従わず、彼らの誘惑から勝ち取り、神様から与える真の幸いを得るためには、私たちの内側が神のみことばに堅く立ち、聖霊に満たされ、神のめぐみを豊かに頂いた時、可能となります。

U。主の教えを喜ぶ教会は、栄える教会です。

神様は1節で、幸いな教会の消極的な面を提示し、2節ではもっと積極的な面を提示しております。「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」と。神様が私たちに与えられた66巻の聖書のみことば私たちの霊魂の糧です。私たちの人生の道であり、天の御国に導く羅針盤です。神様はイスラエル民にこのように命じています。「この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである」(ヨシュア記1:8)と。神様から祝福を受ける核心は、継続的に神のみことばの中で喜んで生活する時です。3節で神様は、主の教えを喜ぶ者の幸いな状態について語っております。「その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える」と。

 飢饉の中でも水路のそばにいる木は枯れません。水路から供給される水によって植わった木はますます成長し、緑の葉に恵まれ、実りの季節が来ると必ずたくさんの実を実ります。この水路は自然に造られたものではなく、農夫が自ら作った水路です。一つではなく、たくさんの水路を作り、そのそばに果物の木を植え、実りの時に収穫を刈り取ります。

私たちはみな信仰の果樹園を持っています。たくさんの信仰の水路があります。苦難の水路のそばに植わった木には、時がなると忍耐の実が実ります。試練と迫害の水路のそばに植わった木には、信仰の実が実ります。霊魂を愛する水路のそばには植わった木には伝道の実が実ります。絶望の水路のそばに植わった木からは、希望とビジョンの実が実ります。不和と憎しみの水路のそばに悔い改めの木を植わった時、平和と愛の実が30倍、60倍、100倍実ります。

 なぜ、このような実が実るのですか。その水路にはイエス・キリストの十字架の血潮が流れるからです。神のみことばの喜びの川が流れます。神様が聖霊を通して、毎日、天の御国の川からいのちの水を流してくださるからです。2010年度、椎名町教会は「神の教えを喜ぶ教会」として歩みます。いつも、何をしても、椎名町教会は栄えます。主の教えの喜びの川が椎名町教会から流され、皆さんの家庭も、仕事も、学びも、健康も、何をしても栄えると信じます。

V。主の教えを喜ぶ教会は、主が認める教会です。

 1節から3節までは正しい者、すなわち神のみことばを喜ぶ者の成功と幸いについて述べています。反面4節から6節までは正しい者と比較して、悪者の失敗と不幸について語っています。神のみことばを喜ぶ正しい者は主が知り、認めますが、悪者は主が知らず、主から滅びうせると記しています。4節で悪者は習慣的に、常習的に「悪者のはかりに歩み、罪人の道に立ち、あざける者の座に着きます。」主の教えを喜ばず、昼も夜も主の教えを無視し、神のみことばから外れた生活を行ないます。自分の基準で聖書を理解、判断し、神のみことばを聞こうともしません。いつも神様に対敵する傲慢な者です。

 彼らは外面的には立派な信仰者に見えますが、内面的には「もみがらのようです。」形式的な信仰者で心のうちにまことの真理がありません。穀類のないもみがらのように風が吹くとすぐ飛ばされてしまいます。

 なぜ、神様はこのような者をそのまま置くのですか。マタイの福音書13章24節以下で、イエス様の喩えの話に耳を傾けましょう。「ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。麦が芽生え、毒麦も現われた時、しもべが主人に『では、私たちが行って毒麦を抜き集めましょうか。』だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」

 神様はこの世の教会に、主の教えを喜ぶ教会と人間の教えを喜ぶ教会をそのまま放置して置きます。時には、麦より毒麦がもっと早く成長し、大きくなるように、人間の教えの中心の教会がもっと大きく成長する場合もあります。教会の中にも良い麦のような真のクリスチャンと毒麦のような偽りのクリスチャンが混じり込んで信仰生活する場合があります。毒麦のようなクリスチャンは、神の報いの裁きに立たず、刑罰の裁きを受けます。また、彼は、まことのクリスチャンの群である正しい者の集いにも加わることができない、と詩篇記者は示しています。結局、悪者の最後の結末は、神様から見捨てられ、滅びの道しかありません。イエス様は、「手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(マタイの福音書3:12)と言われました。

しかし、どんな苦難と試練と患難の中でも、主の教えを喜ぶ教会は幸いです。主が知っており、認めてくださるからです。「イエス様が私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださいます」(黙示録21:4)、「神様が私の涙の姿を見ております」(イザヤ書38:5)、「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ります」(詩篇126:6)、「主は、正しい者の道を知っております」(詩篇1:6)この世の人々の賞賛を受けなくても、神様に認められ、天の御国の祝福を受ける教会として歩みましょう。

【結論】

 私たちは、2010年度「主の教えを喜ぶ教会」として歩み続けます。なぜなら、このような教会に、幸いと栄えがあり、主が認めてくださり、水路のさばに植わった木のように、30倍、60倍、100倍の実を実るからです。今年、椎名町教会も皆さんの家庭や仕事や学びなど、何をしても栄えるよう祈ります。

お祈りしましょう。