椎名町教会

1月20日メッセージ


『復讐してはならない』

聖書;マタイの福音書5:38−42 日時;2010.1.24 

【序論】

 人間には感情があります。愛の感情、憐れみの感情、特に、復讐の感情は人間の本能の中で一番体表的なものです。この復讐とは憎しみから生じます。相手のことを赦せない、という感情が膨らんで復讐の行動が現われます。世界戦争のほとんどはこのような憎しみと復讐の感情によって起こった出来事です。イエス様は山上の説教で神の民がこの世でどう生きるか、という倫理道徳、権利や特権、生活について述べています。イエス様は、ユダや人の指導者から誤って学んだ律法に対して、正しく教えております。今日は、復讐に対するユダヤ人たちとイエス様の考えの違いについて共に学びましょう。

【本論】

T。ユダヤ人たちの復讐の考え(38節)。

ユダヤ人たちの生活の基準や社会制度や法律の規定は旧約聖書のモーセ五書に基づいています。しかし、彼らにとって大きな問題は、神のみことばを文字通りに受け入れ、また、人間の観点や状況によって解釈し、民に教える、ということです。

ここでイエス様は群衆に旧約聖書の出エジプト記21章24節「目には目。歯には歯。手には手。足には足。」のみことばを取り上げ、38で「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています」と語り、彼らの誤った復讐の考えについて教えています。

パリサイ人やサトカイ人たちの教えは、神様がモーセに示されたことについて、目に害を受けた被害者は同じく目に害を与える、歯に害を受けた人は、同じく相手の歯に害を与える、という解釈をし、このような復讐をするのが一般化しています。

今も、アラブ国の人々やイスラム圏の人たちは、「目には目で、歯には歯。」という思想で、様々な所でテロを起こし、たくさんの人々の命を奪っています。皆さん、復讐の社会や国家を想像して見ましょう。絶えず、暴力や報復や復讐が起こるでしょう。毎日、強盗や殺人の事件が起こり、町の人々は安心して生活することができなくなります。

神様は今日のみことばのように「目には目で、歯には歯。」を命じ、本当に無秩序と暴力の社会を望んだでしょうか。神様は秩序の神です。神様はアダムの罪によって失われたエデンの園を回復し、私たちが互いに助け合い、愛し合い、赦し合って、再び、神御自身と親しい交わりをしたいと望んでおります。ですから、神様は復讐の神ではなく、赦しの神です。憎しみの神ではなく、愛の神です、破壊の神ではなく、平和の神です。

私たちは聖書に戻り、聖書から正しい意味を探らなければなりません。神様が語った「目には目で、歯には歯。」という復讐の内容は、出エジプト記21章24節、レビ記24章20節、申命記19章21節のモーセ五書で命じられています。出エジプト記21章22節を見ますと、「その支払いは裁定による」と語っています。すなわち、個人ではなく、法廷で裁判官によって定める規定です。しかし、ユダヤ人たちは、個人や群れで裁くことができる、と教えるのです。

人々は自分が精神的、身体的、物質的な損害を受けると、自分が受けた損害より、何倍も返したいと恨みをもっているのが人間の本能です。このような人間の感情を良く知っておられる神様は、私たちを愛し、復讐の悲劇を防ぐために、「目には目で、歯には歯。手には手。足には足。」という規定を立て、制限します。しかし、パリサイ人やサトカイ人たちは、復讐したい時は復讐しなさい、と合理的な法に変えてしまったのです。

このように、ユダヤ人たちは文字通りに解釈し、復讐をしますが、私たちは文字の中から神様の御心を探り、罪人に対する神様の愛を体験しなければなりません。律法では「目には目、歯には歯」ですが、イエス様の恵みの法では復讐の変わりに、私たちを罪から救うためのキリストの十字架の愛を表しています。私たちはどんな苦しい状況の中でも復讐してはなりません。なぜなら、復讐は神の御前で、殺人であり、姦淫であり、偽りの誓いだからです。真のクリスチャンは神の御心に従い、イエス様の十字架の愛で自分に害を与える者を赦します。

U。イエス様の復讐の見解(39-42節)

39節でイエス様は群に「悪い者に手向かってはいけません」と、教えています。イエス様がここで教えるのは、悪い者に手向かわず、避けて行きなさい、という意味でしょうか。クリスチャンだから何でも忍耐を持って我慢し、悪い者が教会の成長を妨げ、教会を破壊しても手向かってはいけない、という意味でしょうか。神のみことばを拒否し、歪曲し、反対する者さえも手向かわず、赦すべきでしょうか。

いいえ、その反対です。ここで、‘手向かう’は、‘徹底的に対抗する’‘敵対する’‘反対する’という意味です。イエス様が教えるのは、人を奴隷にして悪く利用するサタンには徹底的に対抗し、勇敢な兵士として大胆に戦いなさい。ただし、サタンに利用されているその悪い者には憐れみをもって、手向かってはいけません、と教えています。マタイの福音書16章21節以下で、イエス様が弟子たちに、ご自分がエルサレムに行って、殺され、三日目に甦ると言った時、ペテロが「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません」と言いました。その時、イエス様はペテロに向って「下がれ、サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ」と厳しく叱りました。

また、ヨハネの福音書2章13節以下で、過ぎ越しの時、エルサレムの宮の中で、動物を売る者を追い出し、両替人の金を散らし、その台を倒し、わたしの父の家を商売の家としてはならない」と怒りました。イエス様は神様の救いの計画を妨げたり、神の宮を汚す者に対しては赦さず、その背後にいるサタンと徹底的に戦いました。

なぜ、イエス様は「悪い者に手向かってはいけません」と命じているのでしょうか。それは、神様が私たちを愛し、私たちが罪を犯すのを防ぐためです。ローマ人への手紙12章17節以下で、「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」ヤコブの手紙4章7節「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。

愛する聖徒みなさん。皆さんが神のみことばに従って生活する時、迫害を受けたり、様々な害を受け、悔しくて、復讐したいという思いがありますか。神様は言われます。「復讐は私に任せなさい。復讐はわたしのすることである」と。神様は私たちが復讐をして、罪を犯し、サタンの奴隷となるのを望んでおりません。神のみことばに従い、善をもって悪から勝利を得るのを望んでおられます。

イエス様はその勝利の方法を四つの示しております。

「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(39節)

人格的な冒涜に対する勝利です。右の手で右の頬を打つためには背中の後か、もしくは右の手の裏で打った時です。これはユダヤ人にとって最悪の屈辱です。人格的に傷を受けます。手の裏で人の頬を打った時の罰金は、普通の労働者の1年分以上の莫大な金額です。イエス様は人格的な冒涜を受けた時、心や言葉や行動で復讐をしてはいけない、という真理を教えています。

「あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」(40節)

楽な生活に対する権利放棄です。ユダヤ人の上着は、日常の生活の中で、無くてはならない大切なものです。昼は普通の上着ですが、寒い夜になると、布団の変わりに使うものです。クリスチャンは貧しい人のために、大切なものを分け与えなさい、と命じています。

「あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」(41節)

自由の権利からの勝利です。

 その当時、ローマの兵士たちは長距離に移動する時、道を歩く者や畑で働いている者を勝手に連れて行って、荷物を運ばせました。自由の権利を奪われたユダヤ人たちはローマの兵士たちを憎み、彼らに復讐しようとする心を持っていたのです。しかし、イエス様は、彼らから強制的に一ミリオン、すなわち約1500メートル行きなさいと命令された時、自ら喜んで二ミリオン、3000メートルに行きなさい。それで、クリスチャンはローマ皇帝の法よりもっと優れた天の御国の法の中で生きている、ということを証ししなさい、と命じています。

「求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。」(42節)

財産権の放棄です。他人のために自分の財産を放棄し、全部捨てなさい、という意味ではありません。生活の能力がない本当に貧しい人々のために、自分にあるものを分かち合いなさい。神様から頂いた物を自分だけ裕福な生活のために使うのではなく、周りに苦しんでいる人々を助け合いなさい、と教えています。

【結論】 

愛する聖徒皆さん。イエス様は私たちに何があっても言葉や行動や物理的に復讐をしてはならない、と命じています。復讐は神様の権限です。復讐は殺人の罪です。また、心のうちに誰かを復讐する人がいますか。神の前で徹底的に悔い改め、罪を告白し、神の赦しを求めましょう。そして、心に神様から与える平安を抱いて生活しましょう。その時、悪に負けず、罪を犯さず、勝利を得ることができます。私たちは真の勝利者です。それは復讐せずに、隣人を自分のように愛し、善をもって悪から勝利をえるからです。

お祈りしましょう。