椎名町教会

1月10日メッセージ


『聖なる生活』

聖書;詩篇5:27−32 日時;2010.1.10 

【序論】

毎年、春と秋になるとたくさんの若いカープルが結婚をします。日本の若者たちはヨーロッパに新婚旅行を行きます。新婚旅行を終え、成田空港に着いた後、その場で別れる新郎新婦がいます。それは、ヨーロッパの新婚旅行の時、英語ができない新郎を見た新婦は、男性がバカに見えてしまいます。それが原因でけんかとなり、結局、別れてしまいます。誤った結婚の価値観により悲劇です。今、私たちは自由の時代に生きています。特に、コンビニや書店に行きますと、誰でも淫乱の雑誌を見るように置いてあります。インターネットでは性欲を引起こすサイトがたくさんあります。性を刺激する映像が家庭の部屋にまで浸透しています。イエス様は今日の本文で、神様が荒野のシナイ山でユダヤ人に示した、十戒の戒めのうち第7の戒めである「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)という、神のみことばを語り、律法学者やサトカイ人たちの誤った聖書の理解と解釈を正しく教えています。

 21世紀に生きるクリスチャンの聖なる生活はどんなことであるか、を改めて考え、私たち一人一人の信仰生活や家庭生活や社会生活がイエス様に認められる純潔さを維持し、聖なる生活を行なうクリスチャンになって、今年、神様からたくさんの祝福を頂きましょう。

【本論】クリスチャンが聖なる生活をするために守るべきことは、

T。聖なる目を持つことです。

イエス様は28節、29節で「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。」と命じています。これは27節のユダヤ人たちの誤った聖書の解釈に対するイエス様の見解を示す真理です。ユダヤ人たちの第7戒めの「姦淫していはならない」という見解は、姦淫の罪は、男女の肉体の関係によって成立することです。しかし、イエス様は、目に見える肉体の関係だけでなく、目に見えない考えや心の思いの範囲まで、姦淫の罪だと定めております。

ここで、イエス様が問題を提起するのは「だれでも情欲をいだいて女を見る者」です。「女を見る」というのは、一回だけ見るのではなく、性的な目で見て、何度も何度も繰り返して考えることです。では、男性が女性を見るのは罪でしょうか。女性を見て美しいと思うのが悪いでしょうか。イエス様は男性に潔白を主張するのも禁欲主義を勧めるのでもありません。女をどう見るか、です。

男が女を見て、美しいねと言い表わしたり、女が男を見て素敵だと思うのは自由です。しかし、その人が情欲を抱いた目で女や男を見るのは姦淫をするのと同じだ、とイエス様は語っています。そのような者に対してイエス様は29節で「もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。」と命じています。これは、もう心の中から、そのような考えは切り捨てなさい、という意味です。

クリスチャンは神がご自分に似る形に造られら神の子どもです。クリスチャンのうちに聖霊が神殿を造り、宿っておられる聖なる民です。人類の罪を背負って十字架の上で死なれ、三日目に甦られ、今、天の御国の王座で私たちのために執り成しの祈りをしてくださるイエス様に結ばれている天の御国の民がクリスチャンです。雅歌書でイエス様は私たちを「ああ、わが愛する者。私の花嫁よ」と、呼んでいます。黙示録21章9節以下では「聖なる都エルサレムを小羊の妻である花嫁」だと言われました。

イエス様は私たちの新郎です。教会はイエス様の新婦です。愛しいイエス様に焦点を合わせる私たちの目は聖なる目です。サタンは私たちをイエス様から目を離させ、この世の富や名誉や伝統や慣習に目を留めようと誘惑します。エバが欲望の目で善悪の知識を知る木を見た時、サタンの誘惑に落ち、自分も夫も罪を犯しました。イエス様に目を留めず、人間の欲望や情欲に委ねて生きる者は神様の御前で霊的な姦淫を犯す者となります。私たちは純潔を守るべきイエス様の花嫁です。私の目をイエス様に固定しましょう。そして‘イエス様、私はあなだけを愛します’と毎日、毎時間、愛の告白をしましょう。この告白を聞いたイエス様はもっと私たちを愛してくださいます。聖霊様が弱い私たちに力を与え、助けてくださり、聖なる生活に導いてくださるのです。

U。聖なる心を持つことです。

今日、家庭の問題は何でしょうか。夫婦の間の愛の問題です。神様は、創世記2章24節で「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである」と、結婚した夫婦への祝福です。結婚し、家庭を築いた夫婦は体も心も一つです。結婚した夫婦の間の性の関係は、神様から与えられた最高の祝福であり、夫婦同士、互いの愛を確認する最高の愛の表現です。

日本だけでなく、アメリカや韓国も若者たちの性の価値観が崩れています。付き合ったらすぐ性的な関係を持ちます。婚前セックスは神の御前で姦淫の罪です。また、結婚した夫婦が他の男や女と性的な関係を犯すのは神の御前で大きな姦淫の罪です。サタンは非正常的な性的な関係で、個人と家庭と社会を破壊します。ダビデ王がウリヤの妻、バテ・シェバを犯した結果、神様から裁きを受け、生まれた子は死んだのです。ソドムとゴモラ町は性的な堕落によって、ロトと二人の娘以外、ソドムとゴモラ町と民はみな滅んでしまいました。

私たちが神の御前で純潔を守り、聖なる生活をするためにはどうしたら良いでしょうか。

まず、徹底的に悔い改めの祈りをします。

ヨハネの福音書8章1節以下で、姦淫の現場で捕えられた一人の女を石打で殺そうとする民衆にイエス様は、「あなたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と命じ、女に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と言われました。ヨハネの福音書4章では5人の男性と生活したサマリヤの女の罪を赦しました。イエス様はこの二人の女が徹底的に悔い改める心の内面を見たのです。

次に、過去の罪と過ちを完全に決別します。

イエス様は今日の本文で「あなたをつまずかせる右の目をえぐり出し、右の手を切って捨ててしまいなさい」と、また、ヨハネの福音書8章1節以下で、姦淫の現場で捕えられた一人の女に「行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と勧告しています。イエス様は、私たちが悔い改めた過去の罪や過ちは十字架の血潮で綺麗に洗い、消してくださいます。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される」(詩篇103:12)と。今の時点で、これからの信仰生活をもっと大事にし、祝福していださいます。ですから、新しく生まれ変わった者は過去の罪を完全に決別し、聖なる信仰生活の再出発をします。

最後に、イエス様の愛を心に満たします。

イエス様はペテロに「ヨハネの子シモン。あなたはわたしを愛しますか」(ヨハネの福音書21章)で三度も質問されました。ペテロがどれほどご自分を愛しているのか、を確認しています。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存知です」。ペテロも他のイエス様の10人の弟子の心にはイエス様の愛で満ち、イエス様のために福音を伝え、みなが殉教されました。

今、私たちの心には何で満ちていますか。人間の情欲と欲望と自我に満ちている者は、霊的な姦淫を犯しています。ペテロの告白のように「私はあなただけを愛します」、「イエス様だけが私の主です」と、私の愛をイエス様に告白しましょう。

V。聖なる行動を持つことです。

最近、日本の40代や50代や60代の大勢のサラリマンの男性たちが料理教室に通っています。定年退職後、一人生活を備えて、熱心に料理を学んでいます。なぜ、彼らは奥さんがいるのに料理を習っていますか。国会では奥さんから離婚届が出れば、夫の年金や退職金の半分を上げると可決しました。大勢のサラリマンの奥さんたちは自分の夫の定年退職日を待っています。退職するとすぐ離婚し、自分の第二の人生を送りたいと思い、計画を立てています。今までは夫の朝ごはんや子どもの育ちや家事の働きで、自分の人生を楽しむ事ができなかったと思っています。それで、夫が定年退職すると、離婚し、もらったお金で韓国にいるヨン様に会いに行きたい、美味しい料理を食べたり、旅行したり、趣味生活をしたい、と思い、たくさんの奥さんたちが離婚届を出します。退職し、夫婦二人で幸せな老後を過ごしたい、と思い、一所懸命に働いたサラリマンたちにとっては衝撃的です。絶望的です。生きる希望がありません。

しかし、クリスチャンは彼らと違います。イエス様が「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいる」(マタイの福音書28:20)と約束されました。神様が結ばれた夫婦はどんな苦しみや試練があっても、初めの恋愛の心で、天の御国に辿り着くまで、イエス様が私たちを愛したように、私たちもイエス様を愛し、夫婦の愛も永遠でなければなりません。夫も妻も神様がこの世の30億人の男性から、30億人の女性から選び、結んでくださった人だと思うと、どれほど大切な人でしょうか。愛する心で御飯を作ったり、洗濯したり、掃除したり、夫の働きを助ける人はこの世で最高の幸せな妻です。

イエス様は、私たちを救うために天の御国の王座を捨てて、この世に来られ、十字架の上で、ご自分のいのちを捧げるほど皆さんと私を愛してくださいました。このイエス様の愛は永遠に変わりません。イエスを愛する心で信仰生活や礼拝や奉仕をするクリスチャンはとても幸せです。奉仕が楽しいです。喜んで愛するイエス様を大勢の人に紹介します。これが伝道です。愛する人のために献金をします。もっともっと捧げたいです。愛するイエス様と会いたくて礼拝に来ます。みことばを通して愛しいイエス様の声を聞きたくて、耳を傾いて、牧師が語る説教を聞きます。これが主の教えを喜ぶクリスチャンの聖なる行動です。

【結論】

 今、私はイエス様以外に他のものをもっと愛し、姦淫の罪を犯していませんか。イエス様は聖なるお方です。イエス様に結ばれた私たちの目も心も手足も聖なるものです。神の御前にイエス様よりもっと愛した姦淫の罪を悔い改め、私を聖なる生きた供え物として捧げ、これからクリスチャンとして聖なる生活を行ないましょう。

お祈りしましょう。