椎名町教会

9月13日 メッセージ


『心の貧しい者』

聖書;マタイの福音書5:3    日時;2009.9.13 


 皆さんは幸せですか。何が皆さんを幸福にさせますか。イエス様は「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」(マタイの福音書5:3)と語り、聖徒の品性や生活について語り始めます。この5章3節は八つの幸いのドアを開き、理解を助ける主な鍵となります。


T。イエス様が教える幸いとは何でしょうか。

 イスラエルの民の幸いの価値観は、ダビデ王のように偉大なメシヤがローマの束縛から自分たちを解放し、世界を支配する国を立て上げることでした。すなわち、彼らのすべての幸いの基準は、外面的で物質的であったのです。しかし、今日の本文で「心の貧しい者は幸いです」と、イエス様が教える幸いは、今までユダヤ人たちが持っていた幸せの価値観とは正反対の天の御国の幸いです。「マカリオン」という霊的な幸いについて語っています。天上の幸いです。内面的で、霊的で、信仰的な幸いです。

 私たちの幸福の価値基準は、個人的で、主観的です。自分に当てはめ、自分を中心に幸いの基準を計ります。しかし、イエス様が教える「幸い」とは、神との関係の中で得る幸いです。ダビデ王の「幸いなことよ」(詩篇1:1)という賛美は、自分のすべての祝福は神様から与えられ、幸いの主導権は神様にある、という告白です。

U。心の貧しい者は幸いです。

 ギリシャ語で「貧しい者」という言葉は二つあります。一つは「ペネス」という言葉で、貧しい生活のために働かなければならない者のことです。もう一つは「プトコス」という言葉で、何も持ってない者で、ひざまずいて物乞いをしなければならないほど貧乏な者のことです。すべてを他の人に頼って生きる人です。社会的な力と影響力は勿論ありません。

本文でイエス様が「プトコス」という言葉を使ったのは「霊魂の貧しい者」とはどんな人なのかを教えるためです。まず、第一に、霊的な貧困を認める人です。今、自分が霊的に貧困な状態にあることを認め、イエス様に寄り頼む人です。二番目に、自分の無力を認め、神様にすべてを頼る人です。神の御前で自分の罪深さを悟り、神様なしに生きる事ができない、と告白する人です。神様の聖さと威厳と栄光の御姿の前で、自分の自我と傲慢が粉々に砕かれ‘私は何も持っていない’と告白する人です。

出エジプト記3章で、40年間の荒野の生活を通して、神の御前で「私はいったい何者なのでしょう」と自分の無力を認めたモーセ。イザヤ書6章で神の神殿に上って祈る中、神の栄光の前で「ああ。私は、もうだめだ。」と叫んだイザヤ。ルカの福音書5章で、イエス様の命令に従い、網をおろした時、両方の舟いっぱいに魚を取り、イエス様の足もとにひれ伏して「主よ。私のような者から離れてください。私は罪深い人間です」と、告白したペテロ。彼らはみな自分の無力を認めた人たちです。三番目に、天の霊的な糧を切に慕い求める者です。「霊魂の貧しい者」とは「イエス様こそ私のいのちのパンです」と信じ、毎日、神のみことばの中で天の霊的な糧を慕い求め、食べて生きる者です。

V。心の貧しい者は天の御国を所有します。

 本文3節「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです」というみことばは、クリスチャンの品性であり、信仰生活の態度を表わしたものです。私たちにはイエス様の約束通りに神様から天の御国が与えられました。天の御国はイエス・キリストのうちにあります。イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(マタイの福音書4:17)と、ご自身が天の御国であり、イエス様の中に貧しい心があるのを示しておられます。これは、イエス・キリストの受肉、十字架の死と復活を通して神の御国を経験することができるという意味です。天の御国は、神様の支配の中にあります。天の御国は神様が王として支配するところです。私の主権と権利を放棄し、神様の権限の中で生きる者は天の御国で生活しているのです。

では、天の御国を所有する聖徒はどんな生活を送るべきでしょうか。

謙遜な生活です。聖霊の臨在の中で生きる生活です。試練や苦難の中でもすべてに感謝する生活です。隣人を自分のように愛する生活です。神のみことばに従う生活です。


神様が与えるまことの幸いを求めますか。天の御国を所有したいですか。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」(文責 韓在國牧師)