椎名町教会

10月25日 メッセージ


『心のきよい者』

聖書;マタイの福音書5:8    日時;2009.10.25 

 今日のみことばはイエス様が教える6番目の幸いな者の品性についてです。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(8節)というみことばから、「心のきよい者」の品性と幸福な生活とは何かを学びましょう。

T。「心のきよい」の意味とは。

イエス様は今日、私たちに「心のきよい者は、神を見る」と約束し、神様と出会い、神様の御顔を見る秘訣を明確に教えています。その秘訣の鍵は「心のきよい者」ということです。「カルディア」という「心」は「人格の中心地」です。「喜び、苦しみ、愛、欲望、情熱などの感情の中心地」です。「物事を考え、悟り、理解する知的な中心地」です。「決断する意志の中心地」です。すなわち、「心」は人間の知性、感情、意思や宗教的な生活などすべてが流れ出る源泉です。「不義、悪、むさぼり、悪意、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪だくみ、陰口、高ぶり」(ローマ人への手紙1:28,29)などは心から出ます。すべての問題の根元は心から生じます。ですから、イエス様は、心をきよくすることがすべての問題を解決する鍵になると示しています。「カタロス」という「きよい」の意味は、「不純物が入ってない」、「罪がない純粋な心」を表します。その当時、ユダヤ人たちは、手を洗う、動物を殺して血を注ぐなどの外面的な行動によって罪から清められると信じ、人々に強制的に勧めていました。しかし、イエス様が強調する「きよい」とは、内面的なもので、心がきよいことです。

U。心のきよい者とは。

今日、多くのクリスチャンが神様を見る事ができない理由は何でしょうか。きよい心を持たないからです。イエス様は偽善の律法主義者やパリサイ人たちに「あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不義でいっぱいです」(マタイの福音書23:27,28)と、厳しく叱責しています。今、私たちにとって大切なことは、心を変えることです。きよい心で捧げない礼拝は、霊的な礼拝ではなく、神様は受け取りません。きよくない心で聖書を勉強する人は傲慢な者となり、奉仕する者は偽り者となり、賛美はうるさいタンバリンとなってしまします。

では、心のきよい者とはどのような者でしょうか。神様のみことばで生きる聖徒です(ヨハネの福音書15:3)。絶えず祈る聖徒です。「神のことばと祈りによって、聖められるからです」(第Tテモテ4:5)。イエス・キリストの十字架の血潮を信じる聖徒です(第Tヨハネ1:7)。聖霊に満たされて生きる聖徒です(ガラテヤ人への手紙5:16)。物質より神様を愛する聖徒です。「だれもふたりの主人に仕えることができません」(マタイの福音書6:23)。キリスト教は知識の宗教でもなく、奉仕の宗教でもありませ。知識と奉仕を含めた心の宗教です。心のきよい者が神様と出会い、神様を見る宗教です。

V。心のきよい者の祝福とは。

イエス様は、「心のきよい者は、神を見る」という衝撃的なことばを語り、クリスチャンの生き方の本質は何であるかを強調しています。聖書でイエス様は「いまだかつて神を見た者はいない」(ヨハネの福音書1:16)と語っています。実際、肉の目では神様を見る事はできません。心のきよい者が神を見る事ができます。信仰の目で見るからです。このように、神様を見る必修条件はきよい心です。

「神を見る」とはどんな意味でしょうか。神様の臨在を感じ、体験することです(ヘブル人への手紙11:27)。私たちは礼拝の中で神の臨在を感じます。交わりの中でキリストの十字架の愛を感じます。日常生活の中で聖霊の満たしと導きを感じます。御霊の実の愛と喜びと平安に満ち溢れて生きる聖徒は神様を見るのです。

 神様がどんな方かよく分るようになります。私たちは聖霊によって神様を「アバ、父」と告白します。神様が創造主であり、唯一の神であることを信じます。神様の愛の交わりの中に入ります(第Tヨハネ3:16)。神さまの御国の婚礼に参加します。「小羊の婚礼に招かれた者は幸いだ」(ヨハネの黙示録19:9)。キリストの再臨を待ち望みます。「『しかり。わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください」(ヨハネの黙示録22:20)。

信仰は心です。心を尽くして思いを尽くして力を尽くす時、神様を見ることができます。神様を見る幸福なクリスチャンになりたいですか。心のきよい者になりましょう。