椎名町教会

10月4日 メッセージ


『義に飢え渇いている者』

聖書;マタイの福音書5:6    日時;2009.10.4 

今日はイエス様が教える4番目の幸いとして6節で「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです」というみことばを通して、イエス様が教える真理を探りたいと思います。


T。神の義とは何でしょうか。

神の義とは、神の御国の基準です。今日の本文でイエス様が語る義とは、クリスチャンの正しい行ないであり、神様との正しい関係です。神の御心に適う聖徒の聖い生活を表します。では、神様の義の基準とは何でしょうか。それは、イエス・キリストです。イエス様のすべての生き方が神の義の基準なのです。私たちが神様と正しい関係を築くためには、罪の服を脱ぎ捨て、イエス・キリストが十字架の上で流された血潮で清く洗われた義の衣を着なければなりません。ルカの福音書15章で放蕩の息子が帰って来たとき、お父さんは「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい」(22節)と、新しい着物を着させて祝宴に招いたのです。今、私たちには脱ぎ捨てるべき罪の服、肉の服はありませんか。自我と傲慢の服、固執と憎しみの服、情欲と快楽の服、不従順と否定的な考えの服を脱ぎ捨てましょう。そして、イエス・キリストの十字架の血潮で洗った謙遜の服、愛の服、自制の服、従順と肯定的な考えの服を着て、神様が準備してくださった祝宴に入りましょう。「義人はいない一人もいない」と神様は言われましたが、なぜ、「ノアは神様から正しい人」だと認められたのでしょうか(創世記6:9)。神様の見方に立って、神と共に歩んだからです。なぜ、アブラハムは神様から義と認められたのでしょうか(創世記15:6)。偶像から唯一の神様を選び、神様のみことばに徹底的に従ったからです。なぜ、ヨセフは神様から正しい人であったと言われたのでしょうか(マタイの福音書1:19)。聖霊によって身重になった妻マリヤを赦したからです。今、神様が捜し求める聖徒は、どうしたら神の基準に従って生きられるかと飢え渇いている者です。

U。どんな人が義に飢え渇いている者でしょうか。

「義に飢え渇いている」というのは「義を慕い求める」という意味です。義に飢え渇いている者は、罪から解放したいと願います。十字架の上に毎日自分の罪を打ち殺し、悔い改め、神様に立ち返る者が義に飢え渇いている者です。義に飢え渇いている者は、イエス・キリストを慕い求めます。イエス様は私たちの霊魂のために飢え、私たちの救いのために渇きました。キリストは私たちの霊魂のいのちであり、天から来られたまことのパンです。イエス様は言われました。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は、どんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネの福音書6:35)と。義に飢え渇いている者は、聖い生活を慕い求めます。私たちの聖い生活の基準はイエス様です。イエス様の生活に焦点を合わせて生きるのが聖化の生活です。義に飢え渇いている者は、神のみことばを慕い求めます。神のみことばは生きています。神のみことばは聖徒の糧です。ですから義に飢え渇いている者は、神のみことばに反する不義に一切妥協せず、徹底的に戦います。これこそ殉教者の信仰です。そのような人は天の御国で義の冠が備えられています。

V。義に飢え渇いている者が受ける満ち足りる祝福

ここで‘満ち足りる’とは‘食物を食べて満足する’‘動物に餌を与え、満足させる’‘人が食べ物をお腹一杯食べて満足する’という意味です。つまり‘神様が人の欲求を満足させ、私たちが満足する’という意味なのです。ですから、義に飢え渇いている者は、神様が食べ物をお腹いっぱい与えて下さるので満足することができます。この世の喜び、幸せ、食物は一時的で、私たちにまことの満足を与えてはくれません。しかし、イエス・キリストには「喜びが満たされています」(ヨハネの福音書15:11)。「・・・渇かないいのちの水があります」(ヨハネの黙示録22:17)。「決して飢えないいのちのパンがあります」(ヨハネの福音書6:35)。義に飢え渇いている者が満ち足りる祝福とは何でしょうか。豊かな恵みです。クリスチャンが飢え渇いた時は神様が天からいのちのパンと水を与えます。イエス・キリストだけで満足するのです。聖霊に満たされ、霊魂を満足させます。「まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされます」(詩篇107:9)。飢え渇いた者は自分の霊魂が満足して賛美をささげるようになるのです。


皆さんは今何に満足していますか。自分の義にですか。良い環境や成功にですか。神の義に飢え渇いている者だけが神様から与えられる天の御国の祝福に満ち足りるのです。(文責 韓在國牧師)