椎名町教会

10月18日 メッセージ


『あわれみ深い者』

聖書;マタイの福音書5:7    日時;2009.10.18 

 山上の説教の3節から6節前半に見られるクリスチャンの4つの品性は、クリスチャンと神様との関係における一人一人の心の内面的な品性を表しています。しかし、今日の本文7節から10節の後半の4つの品性は、クリスチャンと他人との関係に置いてどんな生活を送るべきか、ということを教えています。7節「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」

T。憐れみの意味

憐れみは、旧約聖書のヘブル語では「ヘッセド」と言い、神の品性や行動を説明する時に使う重要な単語です。新約聖書のギリシャ語では「エレオス」という単語を使っています。「ヘッセド」や「エレオス」という「憐れみ」の根本的な意味は「罪によって傷を受け、霊的な病にかかった人をかわいそうに思い、助け、生かすこと」、「苦難に置かれている兄弟の苦痛を共にすること」、「私たちが他人の立場から、その人の目で物事を見、その人の心で感じ、その人の手足となって行動すること」です。本来、「愛」は「心の中で感じ取ることです」が、「憐れみ」は「外に表す行動です。」他人の苦痛を見て同情し、その苦痛を取り除くために具体的に助けるのが憐れみです。恵みは罪の中に置かれている者を助けることですが、憐れみは不幸の中に置かれている者を助けることです。柔和は温かい心を持つことですが、憐れみは苦痛に置かれている者を積極的に助けることです。

U。神は憐みのお方

イエス様が6節でクリスチャンの四番目の品性である「義」の後、7節の五番目の品性である「憐れみ」について語ったことには理由があります。神は義なるお方です。神様がご自分の義に基づいて人間を裁くなら誰一人救われる人はいません。なぜなら、罪の本性をもって生まれた人間はみな罪人で、だれも神の御前で義と認められる人がいないからです。聖書で神様は「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ人への手紙3:10)と、明確に示しています。憐れみ深い神様は、罪人を裁きから救うために、約2000年前、御子イエス・キリストをこの世に遣わし、人類のすべての罪を背負わせ、十字架の上で死なせました。そのイエス様の血潮によって、私たちの罪を清め、赦してくださいました。これが神の憐れみの心です。

本来、憐みは罪に汚れ、堕落した人間の心にはありません。神様から生じ、神様から私たちに与えられた神の品性です。無条件の神の愛です。無限に赦してくださる神の心です。神の憐みは、愛と恵みと赦しに満ち、人類の救いに焦点を合わせています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネの福音書3:16)

V。憐れみ深い者が受ける祝福

 イエス様はルカの福音書10章30節以下の「良いサマリヤ人の喩え」で、憐れみ深い者の品性と生き方について教えています。憐れみは相手を選びません。自分より相手を先に考えます。自分の利益を考えず、相手のために、自分の貴重な時間とお金を使い、情熱を注ぎます。憐れみは頭で考え、心で感じるのではなく、行動で表します。クリスチャンは神様の憐れみの通路とパイプです。神様から与えられる憐れみを隣人に流して生きるクリスチャンが憐れみ深い者です。憐れみ深い者は、ヨセフのように兄弟の罪を許してあげます。貧しい者を助けます(マタイ25:21節以下)。神の御国の相続を受け継ぎます。ダビデ王のように自分の敵を愛します。

憐れみのない者とはどのような人でしょうか。憐れみは利己心とは反対の言葉です。利己的で自己中心的な人は憐れみがありません。人間中心的な施しや親切な行動はとりますが、神の憐れみは流れていません。しかし、憐れみ深い者は、隣人の苦痛を自分の痛みに、聖徒の苦難を自分の苦難に、教会の苦しみを自分の苦しみにします。「寄るべのない者に施しをするのは、主に貸すことだ。主がその善行に報いてくださる」(箴言19:17)。憐れみは神様に貸してあげることです。神様が30倍、60倍、100倍、皆さんと皆さんの子々孫々に報いてくださると約束しておられるからです。

「行いのない信仰は、死んでいるのです」(ヤコブの手紙2:26後半)。自分の手足を通して神の憐れみを流しましょう。隣人の霊魂の救いに燃えて福音を伝えましょう。全生活を通してキリストの十字架の愛を現わしましょう。これが神の心です。憐れみ深い者の品性であり生き方です。