椎名町教会

11月29日 メッセージ


『旧約を成就されたキリスト』

聖書;マタイの福音書5:17-20    日時;2009.11.29

【序論】

 イエス様は山上の説教で、まず、1節から12節まで聖徒の品性として八つの祝福を語り、13節から16節まで、聖徒の使命と役割として、この世の塩と光を示しています。そして、今日の本文から7章までは、聖徒として必要な根本的な生活態度を命じています。

【本論】

T。旧約聖書はイエス・キリストの影です。 

 イエス様は17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです」と、群に言われました。その当時、律法学者やパリサイ人たちは熱心に律法を守るよう民に教えましが、問題は律法を誤って解釈したということです。律法には従うべき戒め248項目と禁止すべき365項目の規律を定め、これら613項目を守ることによって救われ、神様に義と認められる、という行ないを中心に信仰生活をしたのです。

今日、旧約聖書について誤って教える神学者や牧師たちがいます。旧約の廃棄を主張する人たちです。自由主義者と快楽主義者たちの教えです。彼らは旧約聖書と新約聖書の一部分を分けて教えます。旧約時代に守られた礼拝や献金、祈りなどは新約時代に来てからは終わったと教えます。安息日を聖なる日として守るよう教えません。十分一献金は旧約時代にユダヤ民が捧げた物で、新約時代には終わったので、今は捧げる必要がないと教えます。そして人間の都合で計算した月定献金を教えます。また、旧約聖書の完成を主張する人たちです。ユダヤ人たちです。彼らが信じる聖書はモーセ五書の律法だけです。

 旧約が地の中の根子であるなら、新約は地上に現れた木の枝で咲いている花や実であります。根子に結ばれた木から実が実るように、旧約の影から実体としてこの世に来られたのがイエス・キリストです。

創世記3章15節のみことばの中でキリストを見ないと、キリストの十字架の出来事は解釈できません。モーセを通してイスラエル民の出エジプトの解放と約束の地カナンの道程から、イエス・キリストを通して人間の罪からの解放と天の御国への道程を解釈しないと、神様の救いの計画を悟ることができません。イスラエル民の過ぎ越しの時、門柱に塗った子羊の血と荒野の幕屋で罪人の代わりに捧げた動物をキリストに照らせないと、私の罪のために十字架の上で死なれた救い主イエス・キリストを信じることができません。旧約のダビデ王の家系から約束されたメシヤが神のみことば通りに人類を救うために200年前ダビデの町、ベツレヘムで生まれました。このように、創世記からマラキ書までの旧約聖書すべての出来事は、イエス様の受肉、福音伝道、十字架の死、復活と昇天について書かれたイエス・キリストの影です。

 私たちは旧約も新約も神のみことばと信じる福音的な信仰者であり、聖書信仰に立って生きる聖徒です。聖書以外のどんな教えにも耳を傾けてはいけません。聖書の中で神の御声を聞き、イエス様と出会い、聖霊の満たしを経験する信仰者になりましょう。

U。旧約を成就された方はイエス・キリストです。

 18節で「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」と、イエスが言われたのは、神のみことばを歪曲して教える律法主義者やパリサイ人たちへの厳しい警告であり、今日の私たちへの正しい信仰生活のための忠告です。パウロは「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです」(ローマ人への手紙10:4)と語り、イエス様は律法の完成者であると述べています。イエス様が旧約を成就し、律法の完成者であるのは、旧約を正しく解釈したという意味です。すなわち、イエス様は神のみことばを通して救われる者を、エデンの園でアダムが失われた神に似る形を再び回復し、永遠のいのちを持って、神様と交わりを保たせるのが、イエス様の律法の成就の目的です。

 イエス・キリストが律法を成就されたと語った意味を考えましょう。旧約聖書に書かれた通りにキリストが来られたのです。旧約聖書の出来事とイエス様の働きと一致することです。旧約聖書の意味とイエス様が教えるみことばの意味が同じです。また、道徳法として「互いに愛しなさい」というみことばの完成です。裁判法として、外面的な行いより、内面的な本質の基準です。礼拝法として、旧約の時、毎年動物を殺して捧げるのが、十字架の血潮によって永遠の礼拝を完成させました。

 今日、クリスチャンの中には、神様だけを愛し、礼拝に熱心に参加します。教会の奉仕や献金や祈りや伝道も一生懸命にします。しかし、隣人には無関心な人がいます。彼は律法主義者の信仰と同じでしょう。また、神様には無関心ですが、人間を愛し、熱心に助け上げます。彼は人本主義者でしょう。私たちはイエス様が教える聖書のみことばに従い、神を愛したのと同じく隣人も愛さなければなりません。イエス様は十字架の上で、神を愛し、隣人を愛する律法の成就を成し遂げられました。その愛の実践を弟子たちに、そして皆さんと私に委ねられたのです。

V。聖徒はイエス・キリストの義に従って生きる者です。

イエス様は19節、20節でクリスチャンの信仰生活の本質について教えています。19節では、天の御国で偉大な者と小さな者と呼ばれる基準は、神のみことばをどれほど守るか、守らないかで限られています。律法学者やパリサイ人たちは613項目の律法の規律を定め、それを熱心に守ることによって、人々に義と認められ、尊敬を受けたのです。彼らは、自分たちの行いが義として認識し、一般の市民たちにもそれを守るように教えたのです。彼らは、神様は熱心に愛し、神様のためには一生懸命に奉仕します。しかし、取税人や遊女、病人や罪人、異邦人を無視し、相手にしてくれなかったのです。彼らと比べて、イエス様は社会的から無視され、弱い人々の友たちとなって、彼らに福音を伝え、癒し、ともに食事をし、彼らを愛したのです。

優越感と傲慢と偏見をもって律法を教える律法学者たちやパリサイ人は、神の御前ではもっとも小さな者と呼ばれる、とイエス様は述べています。では誰が神の御前で偉大な者と呼ばれますか。イエス・キリストの義に従って生きる聖徒です。20節でイエス様は「まことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、はいれません」恐ろしい警告をしています。イエス様が定めた天の御国に入る義の基準は、律法学者やパリサイ人の義にまさることです。

イエス様が求める義はどんな義ですか。イエス・キリストの義です。イエス様の品性をもって生きる義です。律法主義者やパリサイ人のような偏見な義ではなく、神の御ことばにそのまま従って生きる聖徒です。傲慢な信仰ではなく、神のみことばなら小さなことでも謙虚で従順に従うことです。私の基準で神と隣人を愛するのではなく、聖書と神様の基準で神を愛し、隣人を自分のように愛します。彼らの義は形式で、外面的で、人間的です。しかし、彼らにまさる私たちの義は、イエス様の品性です。イエス様の御心です。イエス様の義は真実で、内面的で、霊的な義です。小さな義でも聖書とイエス様の教えに従い、謙遜と愛と犠牲を払い、自分が栄光を受けるのではなく、その栄光を神に返す時、その義は律法主義者やパリサイ人よりまさる義です。

イエス様は聖書で「私は、この書の預言のことばを聞くすべての者にあかしする。もし、これにつけ加える者があれば、神はこの書に書いてある災害をその人に加えられる。また、この預言の書のことばを少しでも取り除く者があれば、神は、この書に書いてあるいのちの木と聖なる都から、その人の受ける分を取り除かれる」(黙示録22:18,19)と、警告しています。イエス様は旧約を成就されたお方です。聖書のすべてを信じ、キリストの義を現わす信仰生活を行ない、天の御国を受け継ぐ者になりましょう。