椎名町教会

9月20日 メッセージ


代読;初田隆宏長老

『悲しむ者』

聖書;マタイの福音書5:4    日時;2009.9.20 


 山上の説教でイエス様が教える真理は、私たちの価値観とは正反対のものです。イエス様は霊的な世界の真理を語っておられるのです。ですから、この山上の説教は霊的な神の民が実践して生きる生活の態度について表わしているのです。今日は「悲しむ者」を通してイエス様が教える真理から恵みを頂きましょう。


T。悲しむ者とどんな人ですか。

イエス様が語る悲しい者とは、自分の罪のゆえに悲しむ者です。自分の罪深さを見つけるためには、「心の貧しい者」となって、自分の霊的な貧乏を自覚しなければなりません。聖書のみことばの鏡に自分の行動、考えや心を映して見ると、自分の罪があまりにもたくさん見えて、嘆き始めます。自分の罪によって心が切り裂けるほど悲しむ者です。また、隣人と国のために悲しむ者です。クリスチャンは、隣人の痛みを自分の痛みとします。愛する兄弟姉妹のつまづきや罪に対して、自分の責任として受け止め、嘆きます。エレミヤは「ああ、私の頭が水であったなら、私の目が涙の泉であったなら、私は昼も夜も、私の娘、私の民の殺された者のために泣こうものを。」(エレミヤ書9:1)と、自分の民族、イスラエルの民の罪のために嘆いています。イエス様はエルサレムの罪を見て「ああ、エルサレム、エルサレム」(ルカの福音書13:34)と叫び嘆きました。エレミヤとイエス様の心をもって、隣人のために悲しむ者は幸いです。他人の苦しみを自分の苦しみに、隣人の涙を自分の涙にする聖徒は幸いです。民族の試練と苦難を共に背負って行く教会は幸いな教会です。これが天の御国を所有した霊的なクリスチャンが悲しむ幸いなのです。

U。クリスチャンが悲しむべき霊的な要素は何でしょうか。

 天の御国の悲しみはこの世の悲しみとは違います。イエス様はマタイの福音書6章24節以下で、クリスチャンは「何を食べるか、何を飲むか、何を着るかを心配して」嘆くのではなく、「神の国とその義を第一に求めて」嘆きなさいと命じておられます。私たちの生活の視点と信仰の目標を天の御国に向けなさいという意味です。霊魂の貧しい者が霊的な糧を捜し求めるように、神の御国の民は悲しむべき霊的な要素を捜し求めます。つまり自分の罪を見つけ、心を切り裂いて嘆きます。イエス・キリストの十字架の贖いの死の苦しみを覚え、叫び嘆きます。イエス様の無限の愛を感じて嘆きます。神のみことば通りに生活できない自分の弱い姿を見て悲しみます。神様から頂いた感謝すべきことがたくさんありますが、いつも不平不満をする自分を見て叫び嘆きます。神様にすべてを頼らず、人間に頼る不信仰を嘆きます。自我が砕かれない頑固な自分の内側を見て嘆きます。このように、霊的に悲しむ要素を捜し、見つけ、神の御前で徹底的に悔い改め、神の御前に立ち返りましょう。

V。悲しむ者がもらう神の慰め。

‘慰め’には‘激励する’‘助ける’‘命を吹き込む’という意味があります。‘彼らは慰められる’とは、すなわち、‘神様が慰めてくださる’という意味です。私たちが悲しむ時、誰が慰めてくれるでしょうか。父なる神様が慰めてくださいます。ヨハネの黙示録21章4節にあるように「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」お方は神様です。父なる神様だけが私たちの悲しみを慰めてくださるのです。また、御子イエス・キリストが慰めてくださいます。イエス様の受肉、十字架の死、三日目に死人のうちより甦られた復活の出来事は、罪によって苦しんでいる人々に慰めを与えてくださるのです。最後に、聖霊なる神様が慰めてくださいます。ヨハネの福音書14章16節以下で「助け主がいつまでもあなたがたとともにいる」とイエス様は約束されました。助け主である聖霊様は弱い私たちを助け、守り、導き、教え、慰めるために遣わされたお方です。

では、悲しむ者が神様からもらう慰めとはどなものでしょうか。罪の赦しと救いの喜びです。心の平安です。永遠の命の約束と天の御国への希望です。悲しむ心はイエス・キリストの品性です。聖徒が持つべき品性なのです。これこそ神様が与える天の御国の幸いです。


私たちは神様の慰めが必要な者たちです。悲しむ者となり、神様から慰めをもらい、サタンとの霊的な戦いから勝利する神の兵士として信仰の歩みを続けましょう。(文責 韓在國牧師)